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福岡地方裁判所 昭和30年(わ)709号 判決

被告人 岩田嘉彦

主文

被告人を懲役六月に処する。

但し本裁判確定の日より一年間右刑の執行を猶予する。

理由

(一)  犯罪事実

被告人は昭和二十七年八月十九日より昭和二十八年八月三十一日まで、佐賀県東松浦郡厳木町野中鉱業株式会社に雇われ、同会社経営の東和炭鉱の検送炭係として勤務していた者であるが、同炭鉱を離職するに当り、失業保険金を騙取しようと企て、真実は離職前六ヶ月間の賃金総額が九万七千九百六十六円二十六銭であつて、正当に受領し得べき失業保険金総額は五万八千五百円であるのに、昭和二十八年九月初頃、同炭鉱係員坂本隆英をして、離職票に離職前六ヶ月間の賃金総額を十二万四円である旨水増しして記入せしめ、あたかも右賃金総額に対する失業保険金総額が七万二千円であるかの如く装い、同年九月十四日、福岡市雁林町福岡公共職業安定所において同安定所係員に対し、右水増し記入した離職票を内容が真実であるもののように装つて提出して失業保険金の給付を求め、同安定所係員をしてその旨誤信させ、因つて同年九月二十八日より昭和二十九年三月二十二日までの間前後二十四回に亘り、失業保険金総額七万二千円を受領し、右金額と正当に受領し得べき失業保険金総額五万八千五百円との差額金一万三千五百円を騙取したものである。

(二)  証拠

(証拠の標目)(略)

なお右証拠に基き離職前六ヶ月間の賃金総額、正当に受領し得べき失業保険金総額の算定について説明する。

まず、離職前六ヶ月間(昭和二十八年三月より同年八月まで)の被告人の基準内賃金の詳細は別表第一のとおりであつて、その総額が六万六千六百六十円であることは押収にかかる職員給与明細表(昭和三十年(裁)第四四四号の一)により明らかである。

しかるに右期間中被告人が時間外労働並びに深夜業労働に従事したことは前掲証拠により疑をいれる余地がないのであるから、被告人が離職前六ヶ月間に果して何時間の時間外並びに深夜業労働に従事したかを検討してみなければならない。そこでまず、離職前六ヶ月間の月別稼働日数、一番方、二番方の別を押収にかかる出勤簿(昭和三十年(裁)第四四四号の三)、証人小島英雄の昭和三十一年四月四日の公判における供述を綜合して検討してみると、右は別表第二のとおりとなる。

もつとも、一番方の勤務時間、二番方の勤務時間、被告人が現実に勤務した労働時間については証拠は種々に分れ、これを確定するに足る明確、充分な証拠は本件においては遂に顕出され得なかつたのであるから、これらの点については被告人に最も有利な時間数において事を認定せざるを得ない。すなわち、一番方は午前七時より午後五時までの勤務であり、二番方は午後五時より翌日午前七時までの勤務であり、被告人は右勤務時間中労働に従事していたものと認めなければならない。されば被告人は右労働時間数に応じて時間外割増賃金並びに深夜業割増賃金を受領し得べきものであるとしなければならない。そして労働基準法第三十二条、第三十六条、第三十七条、第三十八条、同法施行規則第十九条、第二十条、第二十一条により算定すれば、鑑定人国崎為雄作成の鑑定書によつて明らかなとおり、離職前六ヶ月間の被告人の受領し得べき時間外割増賃金は二万七千百四十五円四十六銭であり、深夜業割増賃金は四千百六十円八十銭となるわけである。そして前記基準内賃金、時間外割増賃金、深夜業割増賃金の総計九万七千九百六十六円二十六銭が、失業保険法第十七条の三にいわゆる賃金日額算定の基準となる賃金総額であるといわねばならない。

本件においては、野中鉱業株式会社は、労働基準法第三十六条但書により、坑内労働時間の延長は一日について二時間を超えてはならないことになつているのに、同条但書の制限を越えて労働させたことが明らかであつて、同法違反を犯している。しかし同法第三十七条による時間外労働に対する割増賃金は、同法第三十三条乃至第三十六条に基いた正規の時間外労働について支払わるべきものであるばかりでなく、同法第三十六条但書に違反して二時間以上時間外労働をさせた場合においても、その超過労働時間数に応じて割増賃金を支払うべきであり、右割増賃金の額を加算した上で失業保険金算定の基準となる賃金総額を算出すべきものであると解する。けだし、二時間以上時間外労働をさせることは事業主については一面同法第三十六条但書違反行為としてその刑責を問われると共に、他面、いやしくも法定の制限時間を越えて労働者に労働させた場合には、事業主に割増賃金を支払わせ、労働者の保護に万全を期するのが、同法第三十七条の趣旨であり、また右割増賃金を加算した上で賃金総額を算出し、それに対応した失業保険金を支給するのが失業保険制度の本旨に従うものであると解せられるからである。

次に、本件においては野中鉱業株式会社は営業不振を理由に、前示認定の時間外割増賃金、深夜業割増賃金の全額を支払わず、その極少一部を支払つていたのであつて、前示職員給与明細表によると被告人は時間外割増賃金としては昭和二十八年三月三百八十円、同年四月千百五十円、同年七月四百円、同年八月千百五十五円、計三千八十五円、深夜業割増賃金としては同年四月四百円、同年五月六百六十円、同年六月四百円、同年七月九百十八円、同年八月四百円計二千七百七十八円の各支給を受けたにすぎない。しかるところ、検察官は失業保険金は賃金等の未払がある場合は、未払分を控除し現実に支払われた賃金の総額を基準にして算定すべきであると主張する。元来失業保険金が被保険者の離職する前六ヶ月間に支払われた賃金の総額を基準にして算定されることは失業保険法第十七条の二第一項により明らかであるが、右算定の基準とされる賃金の総額とは、現実に事実主より被保険者たる労働者に支払を完了した賃金の総額だけを指すのではなく、事業主において支払義務のある未払賃金をも含めた賃金の総額を指称するものと解さなければならない。すなわち、事業主において、たまたま事業不振等のために被保険者に対し賃金債務の全額について、その支払義務をつくさず、現実には、その一部につき未払があつた場合においては、右未払分を含めた賃金の総額が失業保険金算定の基準となるものと解すべきである。検察官の見解を是認すると、その極端な場合として、被保険者期間内に事業主が被保険者たる労働者に対し全く賃金の支払をしなかつた場合には、賃金の総額は零であり従つて賃金日額、失業保険金の日額も零となり、支払わるべき失業保険金は存しない結果となる。失業保険金制度が、労働者が離職前に享有した現実の生活水準を基準にして、離職後一定期間、離職前の生活水準に対応した一定の最低生活水準を保障するにあるという見地よりすれば、全く無収入の状態であつた離職前よりも高い水準の最低生活費を離職後一定期間支給することは一見矛盾であるようにも見えるかもしれない。しかしながら、かかる見解は当裁判所の採らないところである。本来、失業保険制度は政府の管掌するところであつて、国家的立場からする失業者の生活安定という社会保障的構想の下に設けられた保護立法である。たまたま一事業主の賃金未払があつたからといつて、当該事業主に雇用された労働者が失業保険の利益を与えられないというのであつては、失業保険制度の本来の趣旨に反するのであつて、かかる労働者も、賃金未払のない事業主に雇傭された労働者と同じく、失業保険法の保護の下に失業保険金を受給する権利を与えられているものと解さなければならない。

つぎにまた、被告人が離職前に負担していた保険料額は、現実に会社が被告人に支払つた賃金を基準にして算出され、毎月の賃金から控除されていたことが明らかである。さればその控除額は本来、未払賃金を含めた賃金額を基準にして控除されるべき保険料よりも少額であつたといわねばならない。しかし、さればといつて、被告人はこのことの故に、会社より現実に支給を受けた賃金を基準にしてしか失業保険金の請求ができないと結論することはできない。何となれば、事業主たる会社は、失業保険制度の下では、元来、保険料額の申告及び納付義務者となつているものであつて、失業保険法第三十三条により、被保険者の負担すべき保険料額に相当する金額をその者に支払うべき賃金から控除する権限があるのであるから、たとえその現実に控除して政府に申告納付した額が、本来控除して政府に申告納付すべき保険料額よりも少額であつたとしても、それは被告人の関知しないところであり、被告人の責に帰する何等のいわれもない。事業主たる会社がその権限において労働者の賃金から控除した保険料相当額、政府に申告、納付した保険料額が正規の金額より少額であつた場合においては、事業主はあらためて修正申告書を政府に提出し、保険料不足額を納付すべき義務があるのであつて、この義務を果した場合に初めて、事業主は後日労働者に対しその本来負担すべかりし保険料不足額の徴収をすることができるのみである。従つて被告人の現実に負担した保険料の額が本来賃金より控除されるべき正規の金額より少額であつたとしても、このことは被告人の失業保険金の請求権には何等の影響をも及ぼすものではないといわなければならない。

以上説明したところから明らかな如く、被告人はその労働時間数に応じて時間外割増賃金、深夜業割増賃金を受領し得べきことは当然であり、これらが一部未払であつた場合は、その未払分を含めて離職前六ヶ月の総賃金を計算し、それを基準にして失業保険金を算出すべきものであるといわなければならない。そして前示のように被告人の離職前六ヶ月の総賃金は九万七千九百六十六円二十六銭であるから、賃金日額はこれを百八十日で除し、五百四十四円二十六銭弱となる。これに対する失業保険日額は失業保険法第十七条の三に基いて公布された昭和二十七年十二月一日労働省告示第二十六号失業保険金額表中二十一等級すなわち三百二十五円であり、これに百八十日を乗じた五万八千五百円が正当に受領し得べき失業保険金総額である。しかるに被告人が現実に受領したのは右失業保険金額表中二十六等級すなわち四百円に百八十日を乗じた七万二千円である。従つて、不正受領額は七万二千円より五万八千五百円を控除した一万三千五百円であると認めなければならない。

(三)  法令の適用

被告人の判示所為は刑法第二百四十六条第一項にあたるので、その所定刑期範囲内において被告人を主文第一項の如く量刑処断し、同法第二十五条に則り主文第二項のとおり刑の執行を猶予し、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項但書に従い被告人に負担させないこととする。

(別表第一、第二)(略)

(裁判官 小松正富)

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